私が経験から得たおいしい食と健康と開運になる情報を紹介してます。また福岡市内で料理教室 「健康ごはん。」をしています。092-707-0173 info@ansin-shokuiti.net  叡知の館(えいちのやかた) リンクフリー
 早いもので9月も今日で終わりです。
今回はミャンマーをお届けします。正直に言うとこの国になじみがありません。旅行にも行ったことがありません。
 昔「ビルマの竪琴」という映画があり、それの中のせりふが当時の男子小学生の間で流行り学校が終わって帰宅するときに、ある生徒が「○○(友達の名前)、みんなで一緒にうちに帰ろう!」と叫んで帰っていた。というのがありました。映画で現地に残る決意をした主人公の日本兵に仲間の兵隊が「一緒に日本に帰ろう!」と呼びかける映画CMの影響だったのですが、それを聞いて可笑しかったことがあるくらいです。

ミャンマーという国にはあまりなじみがありませんが、これを読むと昔の日本人の兵隊さんが戦ったおかげで「黄色人種が白人の支配をはねのけられる」という勇気を当時植民地だったいろんな国に与えているのだなとわかります。
第2次世界大戦後いろんな植民地が独立したのも日本人のおかげだという文章を目にしたことがあります。
あまりピンとこなかったけどこういうことだったんだと思いました。
それは戦時中、黄色人種の日本人が白人をぶっとばしたりするのを見て、それまでのマインドコントロール「黄色人種は劣っていて白人にはかなわない」というのを打ち破ったからだそうです。目から覚めたという理由が「同じ黄色人種の日本人ができるのだから自分たちもできる」、ということだそうです。
今回もいい話がいっぱいです。

3325.jpg

ミャンマー
■アジアの前衛たる日本人は
794 :日本教徒ワタシ田ハカセ ◆cews/3jvyI :04/11/26 23:44:06 ID:B+UWdqoG

参考資料: ミャンマー(旧ビルマ) ビルマ独立義勇軍
アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。
インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。


参考資料 : ビルマ外相 ウー・ヌー 1943年8月1日独立時の演説より
「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」


参考資料 : 初代ビルマ首相バーモウ 『ビルマの夜明け』
「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、
真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」


参考資料 : 初代ビルマ首相バーモウ 『ビルマの夜明け』
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。」


参考資料 : バーモウ (ビルマ元首相 独立宣言)より (一問に百答 日下公人 PHP研究所)
 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て
此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。
・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、
さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」


*********************************************

■私たちの大恩人です〈ミャンマー〉
284 名前: バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds 投稿日: 02/03/10 22:24 ID:wWoOgTQ4

気を取り直して親日の話
http://member.nifty.ne.jp/ykubota/senki/junpai.htm

ラングーン空港よりバンコク行きの便を待つ待合室でのこと。
私の隣に座っていたビルマの中年男性が、「もう日本へお帰りですか。」
と流暢な日本語で話し掛けてきた。彼の言うには、子どもの頃、村にたくさんの日本兵が
駐留しており日本語を教えてもらったとのこと。日本の歌も唄えます、と「見よ、東海の空明けて・・・」
を唄ったりもした。私は、この度巡拝旅行に来た故を語り、
「戦争当時、ビルマの国や国民の皆さんに大変迷惑をかけて済まなかった。」と謝罪した。
すると、彼は顔をこわばらせてこう言ったのだ。
「マスター、なぜそんなことを言うのですか。 日本の兵隊さんが私たちを支配していたイギリス人と戦ってくれたから、ビルマ人は民族魂が燃え上がり、 ついに念願の独立を勝ち取ることができたのです。日本は私たちの大恩人です。 どうかまた来る時はもっと胸を張って来てください。ビルマ人は日本の方を大歓迎します。」 私は安堵した。あの戦争は負けたが、戦争の副産物も大きく残ったという誇りを持つことができた。

戦後、東京裁判で日本は侵略者であると決め付けられた時、裁判に出席していたオランダの弁護士は
「それはおかしい。日本軍が東南アジアで戦ったのは、その地を植民地支配していた我々の軍と戦ったもので、現地住民と武力抗争をしたわけではない。それを侵略というのであれば、我々は一体何と呼ばれればよいのだ。」
と叫んで本国へ帰ってしまった
同じく、インドのパール博士は国際法の権威であるが、「国際法には『世界の平和を乱した罪』などという罪名はない。ナンセンスな裁判だ。」
と非難して、やはり本国へ帰ってしまった。
歴史は常に勝者の記録であり、自分達が正義であったことを後世に伝えるものだ。世界中の誰一人とて戦争を好む人などいない。戦争は悪業であることは誰もが承知している。
しかしながら、今現在も世界のどこかの地で戦争は繰り返されているのだ。その原因は、民族抗争あるいは宗教対立など複雑に絡み合っているであろうが、それらの対立は人間のみならず、生きるものの宿命的なものであると思う。
私は決して戦争を肯定はしないが、彼我の利害が大きく相反する場合、そこに争いが生じることは止む得ないことだと思う。

*********************************************

■「アウンサン勲章」
パート4・133 :文責:名無しさん :02/04/09 13:24 ID:AZau0Uft

 時を経て、1981年1月4日、第33回独立記念日に当時のミャンマー政府は7人の日本人に対して、
「アウンサン勲章」を授けた。それまでこの勲章授与はミャンマー人を含めて皆無であったから、
両国関係者を驚かせた。受賞者7人全員は、鈴木大佐の未亡人を含む元南機関の関係者だった。

 現在でもミャンマー国軍は軍隊の組織からしてほぼ完全に旧日本軍を踏襲している。
これは、まさしく日本が基礎固めをしたということがあったからであろう。

 ミャンマーには多くの親日家がいる。ミャンマーに行くと日本人のほとんど全員が
ミャンマーが好きになる。これは、国民性に多くの共通点を感じるからでもあるし、
また歴史的なつながりが深いからだともいえる。
しかしながら、これは日本が歴史的にミャンマーに対して良いことを行ってきたから
ではなく、お互いの理解の上に成り立っている事を忘れてはならない。

http://www.myanmar-shafu.com/business/kankei.htm
*********************************************

■真のビルマの解放者は
パート4・134 :文責:名無しさん :02/04/09 13:25 ID:AZau0Uft

 バー・モウは決して日本の傀儡ではありませんでした。
彼は、英国の支配を押しのけるためには、その敵(日本)と手を結ぶ必要がある。
と考え、それを実行していたにすぎません。
 昭和20年3月、アウンサン国防相率いるビルマ軍は、突然日本に宣戦布告し、
攻撃を開始しました。このアウンサンの寝返りについて、バー・モウは事前に
相談を受けていました。彼らは、日本敗戦後のことを考え、日本と戦ったという
既成事実を作っておこうと考えたのでした。
バー・モウは「親日政権」の指導者として、粛然として日本へ亡命しました。
 バー・モウは自伝の中で「真のビルマの独立宣言は1943年8月1日に行われた
のであって、真のビルマの解放者はアトリーの英国労働党政府ではなく、
東条(英機)大将と大日本帝国政府であった」と語っています。 
ビルマ独立に果たした日本の役割は消極的なものだったかもしれません。
しかしそれもビルマ人の胸に刻まれているのです。

http://www06.u-page.so-net.ne.jp/fa2/redfield/0505.htm
*********************************************

■軍艦マーチ
パート4・135 :文責:名無しさん :02/04/09 13:29 ID:AZau0Uft

ミャンマーでは3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が
首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんと!
このパレードはいきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。
続いてミャンマーの軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の歌
を次々と演奏して、パレードを続けていきます。
これはいったいどういうことでしょう?

実はミャンマー(旧ビルマ、1989年に国名を変更。それ以前を記す場合はビルマと表記。)は「日本人より日本を愛する国」
といわれるほどの親日国家なのです。どうしてかって?ここミャンマーでは政府の高官からジャーナリストに至るまで、こう言います。
「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。われわれは深く日本に感謝しているのです。」

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_3.html

*********************************************

■世界一の親日国
パート4・136 :文責:名無しさん :02/04/09 13:36 ID:AZau0Uft

ミャンマーは世界一の親日国

 四年前のことである。ビルマ作戦に参加した日本兵から「ビルマは世界一の親日民族である。
戦友の会田(雄次)上等兵(京大教授、故人)は、ビルマメロメロという言葉を流行らせたが、
兵隊の感情を十分に物語っている。いい言葉だ」と聞いた。
現地に来てそれが本当だと理解できた。小説『ビルマの竪琴』が生まれる土壌も確かにあった。
ネ・ウィン議長が日本軍の訓練を受けている時に『高杉晋作』という名前をもらって誇りに思い、
今日に及んでいるのも事実であった。
 ラングーンの問屋街で親日家として有名な店を訪れたら、社長室にオンサンが日本軍の軍服を
着て、日本刀を大上段に振り上げた写真があった。老社長は「日本軍の敢闘によってイギリスの植民地政治が崩壊した。我々は何度も戦ったが英軍に粉砕されたので、英軍を粉砕してくれた日本軍に感謝している。このご恩は永久に忘れない」と熱弁を振るった。

  (平成10年8月25日 第182号)
アジアの曙光 -10-
親日家の声を聞こう!!

*********************************************

■ビルマ独立義勇軍
パート4・335 :文責:名無しさん :02/04/17 01:01 ID:dW21dxRq

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/asia-biruma.htm

亜細亜独立 ビルマ
支那事変当時、中国・蒋介石軍の物資調達は、英国からビルマ
を通じて行われていた。
日本はビルマ・ルートを立ち切るためにビルマの独立を画策し、
鈴木敬司陸軍大佐はビルマ独立の志士:ウォン・サン、ラミヤン
と秘策を練った。

昭和16年2月、鈴木大佐を長とする「南機関」を設立、バン
コクで140名の精鋭からなる「ビルマ独立義勇軍(BIA)」
を編成した。
日本軍のビルマ進撃と共にBIAへの志願者は増え続け、
27,000人にも達した。

鈴木大佐は、一時も早いビルマ独立を参謀本部に進言したが、参
謀本部はこれを認めず鈴木大佐に北海道への転属を命じた。
鈴木大佐の転出を嘆き悲しんだBIAは、肖像画と刀剣に添えて
感謝状を贈っている。

「我等はビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ
独立軍の恩人のことを忘れない。
たとえ世界が忘れるとも、我々の感謝の心が滅びる事は無い。」

*********************************************

■アジアと日本
パート5・267 :文責:名無しさん :02/04/30 01:21 ID:QECgGYGO

http://www06.u-page.so-net.ne.jp/fa2/redfield/アジアと日本
「ビルマ(ミャンマー)」
平成10年12月29日掲載
------------------------------------------------------------------------
 1898年に国号をミャンマーに、首都ラングーンをヤンゴンに解明したかつて
のビルマ。
しかし、旧国名、首都名は、日本人にとって、竹山道雄の『ビルマの竪琴』や、
北朝鮮工作員が韓国大統領一行の暗殺を謀った「ラングーン事件」でなじみがある
旧国名、旧首都名の方が我が国では馴染みがあるよう思います。
本稿では「ビルマ」で統一したいと思います。
 19世紀初頭以来、インドを侵略した英国の圧力を受け続けてきたビルマは、度重
なる抵抗もむなしく、1886年に全土を英軍に占領され、英領インドに編入されました。
その後は、インド人や中国人が大量にビルマに移住し、ビルマ人の生活を圧迫して
ゆきました。
 ビルマ独立の指導者としては、アウンサン・スーチー女史の父・アウンサン将軍
が有名ですが、忘れてはならない人物がいます。
それがバー・モウです。
バー・モウは1893年に生まれました。
「日本、ロシアに勝利す」のニュースは、他のアジアの独立指導者と同様、幼い彼を
も興奮させました。

独立の夢を胸にしたバー・モウは、弁護士を経て政界入りし、自治政府の初代首相
となりましたが、政治犯として投獄され、日本軍が侵攻した時には、脱獄中の身の上でした。
 日本軍政が開始されると、バー・モウは積極的にこれに協力し、昭和18年(1943年)8
月には独立を宣言し、日緬同盟条約を結んで英米に宣戦布告までしたのです。
 バー・モウは、もちろんビルマを英国のくびきから完全に解放することを望んでいました。
しかし、彼の目はビルマ国内だけではなく、隣国・インドの将来に対しても向けられていました。
ビルマが独立宣言をした年に、ベンガル地方で350万人が餓死するという大飢饉が起こって
いました。
食糧不足は人為的なものでした。
連合国側に大量の食糧を供出する一方、穀倉地帯のビルマを失ったため、食糧の移入もま
まならず、それを英国が放置し、アメリカも見て見ぬ振りをしていたからなのです。
「インドの解放なくしてアジアの解放はない」バー・モウは堅くそう信じて、インド救済
に手をさしのべようとしたのです。
 バー・モウは決して日本の傀儡ではありませんでした。
彼は、英国の支配を押しのけるためには、その敵(日本)と手を結ぶ必要がある。
と考え、それを実行していたにすぎません。
 昭和20年3月、アウンサン国防相率いるビルマ軍は、突然日本に宣戦布告し、攻撃を開始しました。

このアウンサンの寝返りについて、バー・モウは事前に相談を受けていました。
彼らは、日本敗戦後のことを考え、日本と戦ったという既成事実を作っておこうと考えたのでした。
バー・モウは「親日政権」の指導者として、粛然として日本へ亡命しました。
 バー・モウは自伝の中で「真のビルマの独立宣言は1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリーの英国労働党政府ではなく、東条(英機)大将と大日本帝国政府であった」と語っています。

 ビルマ独立に果たした日本の役割は消極的なものだったかもしれません。
しかしそれもビルマ人の胸に刻まれているのです。

*********************************************

■ビルマ独立義勇軍2
パート8・809 :176など :02/09/30 23:11 ID:KOsUo541

読んだ感想を聞かしてね。

【ミャンマー(旧ビルマ)】
 アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを
求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・
スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた
人々のために闘ったのである。
ビルマ独立義勇軍


 ヒュギエイアです。
今回もお読み下さりありがとうございます。
健康であることに感謝してあなたの健康を祈ります。
スポンサーサイト
 / Template by パソコン 初心者ガイド